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松本歯科大学病院
歯学と医学の歴史

エピソード「病膏肓(こうこう)に入る」

中国の春秋戦国時代

2千数百年ほど昔、中国では周王室の権威が衰え、諸侯が建てた国々が勢力を争って攻防を繰返していた。 いわゆる春秋戦国時代である。 この時代を記録した「春秋左氏伝」の成公十年の項に、BC581年に死んだ晋の景公の夢の話が書かれている。 晋は大国であったが、君主の景公は臣下の権力が強くなりすぎることを嫌って、家老の趙氏の一族を幼児にいたるまで皆殺しにした。 ある晩の夢に、髪を振り乱した巨大な悪鬼が現れて、「罪のない孫まで殺すとは許せない」と地団駄を踏みながら景公を追い回した。 逃げ込んだ寝室の戸も蹴破られて、あわやというところでようやく夢から覚めた彼は、桑田の地に住む巫(ふ=シャーマン)を呼び寄せて、夢占いをさせた。 巫は景公が「悪い夢を見た」と言っただけで、「趙氏の亡霊が現れたのでしょう」と正確に言い当て、「この崇りから逃れることはできません。おそれ多いことですが、今年の新麦を召し上がることはできないでしょう」と告げた。 小麦がシルクロード経由で中国に伝来するのは、数百年後の漢代と推定されるから、この時代の主食は大麦の粒食であったと思われる。 つまり、景公は麦が収穫される初夏までしか生きられないと、余命の短いことを宣告されたのである。 果たせるかな、景公は重病となった。国内の医師たちが手を尽くしたが、まったく改善が得られなかった。

名医の診察

そこで、隣国の秦に頼んで、名医の高緩(こうかん)を派遣してもらうことになった。 その医師が到着するという前夜、景公はまた夢を見た。 病が2人の童子の姿となって「おれたちをやっつけに名医がやってくる。どうしたらいいだろう」「肓(こう)の上、膏(こう)の下に逃げ込めば大丈夫だ」と話し合っていた。 到着した高緩は、景公のからだをていねいに診察したうえで、こう言った。 「残念ながら、病根は肓の上、膏の下に入ってしまっておりまして、そこには鍼(はり)は届きませんし、薬湯も達しません。ご病気を治すことは不可能です」。 膏は心臓の下側、肓は横隔膜の上側を指し、病気が内臓の最深部にまで入り込んでしまったので、もう手の施しようがないということである。 景公は自分の夢と考え合わせて「さすが名医だ」と感心し、手厚くもてなして帰国させた。

死期の到来

予告された死期の初夏が近づいたが、景公はむしろ元気になった。 麦が実ったので、麦飯を炊かせて食膳に載せ、桑田の巫を呼び出してそれを見せて殺した。 「お前は死ぬといったが、こうして生きているぞ」というわけである。 いざ箸を取ろうとしたところで、腹が張った。便所に行くとめまいがして意識がなくなり、便壷に落ちた。 召使が担ぎ出したが、すでに死んでいた。その者は前夜に景公を背負って天に昇る夢を見たという。 このエピソードから「病膏肓に入る」の成句が生まれた。 「①不治の病にかかる。また、病気が重くなってなおる見込みが立たないようになる。②転じて、悪癖や弊害などが手のつけられないようになる。また物事に熱中してどうしようもないような状態になる」(広辞苑)といった事態の表現として、現代でもしばしば使われている。 ちなみに、「膏」|は膏薬、絆創膏などの用例があるが、「肓」はほとんど知られていない字のため「盲」と誤られて、以前は「こうもう」と発音されることが多かった。

教訓

ところで、この話にはわれわれ医療者にとっての重大な教訓が含まれている。 医師・高緩は景公の病気を治してはいない。症状を和らげてやったわけでもない。 病状を的確に診断して、予後を告げたにすぎない。 それでも患者は感謝し、名医としてその名は遠く現代にまで伝えられた。 引用 松本歯科大学特任教授 笠原 浩 『歯科医学の歴史』 (MDU出版会 2013年 pp.24-25)

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